主の熱心が成し遂げたこと

2014年11月30日(日) 主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約> 目の前にある自分の影が深いほど背後にある太陽の光は強いのです。イエス様が宣教をはじめられた場所はガリラヤです。そこは、苦難と苦悩と暗黒の土地でありました。それは、神は私たちの問題の最中に、最も深い闇に来てくださるということです。太陽の光が暗闇に届いて、やみにうごめく悪しきものを一掃するように、神が悪いところを取り除いてくださることを私たちは願っています。なぜなら、自分では取り除くことができないからです。神から離れて、苦しみにあり、やみの中、死の影の地に住んでいて、自ら抜け出せない、神に立ち返る気力もない、それは、まさしく、罪に死んでいる人間の姿です。「一人の男の子が私たちのために生まれ、私たちに与えられる。」キリストは私たちの罪を取り除くためにお生まれになった。キリストのいのちが私たちに与えられた。それは、キリストが人類のすべての罪を背負い十字架で身代わりとなって罪を取り除いてくださったこと、そして、三日目に復活し信じる者に永遠のいのちをお与えくださったことによります。その男の子にすべての主権があり、その名は、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君です。キリストが統治する神の国はもうすでに地上に来ています。これは万軍の主の熱心によることです。主の熱心は誰に向けられているのでしょう。それは今ここにおられるお一人ひとりに、そして、全人類に向けられているのです。その熱心は、わたしたちを闇から救い出し、罪による滅びから救出したいという願いです。その方法は、イエス・キリストです。受け取って、神との和解をいただきましょう。私たちの心にある闇が深いほどにキリストは喜んで来てくださるのです。 <聖書>イザヤ書9章1~7 続きを読む 主の熱心が成し遂げたこと

探し出し連れ戻す神

2014年11月16日(日) 主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

イエス様は、失われた人を探し見つけ出して救うために来られました。失われた者というのは誰でしょうか。今日の最初の話は、百匹の羊から迷い出た一匹を探し求め見つけたというお話です。一匹を求めて、99匹を「野原において」、一匹を見つけるまで探し求めるというのです。いなくなった一匹を見つけるまで探し続けるというのは、親がわが子を探すようなことでしょう。多くの子どもを持つ親でも一人の子を失ったら他の子どもたちがその子の代わりになることはないのです。かけがえのない命だからです。同様に神様は、私たち人間を一人一人かけがえのないものと見ておられるのです。見つけ出された一匹の羊は、悔い改めて神のもとに帰った罪人です。次に、十枚の内の一枚のコインを亡くした女性の話です。無くなったコインは、かつて神様の聖い花嫁であったが、神様から離れたイスラエルの民をさしています。同様にそれは、真の神から離れて、失われている人間をさしています。聖書は人間を羊に例えています。羊は囲いを出たら自分がどこにいるかわからなくなるそうです。人間も本来神と共にいたのですが、神から離れてしまい帰れないのです。羊が家に帰るただ一つの方法は、羊飼いが探し見つけ出して抱えて連れ帰ることです。人間も神のもとへ帰る唯一の方法は、天から私たちのところへ来てくださったイエス様によって、神のもとへ帰るのです。神様が最も喜ばれることは何でしょうか。迷子の羊を見つけた羊飼いは大喜びで肩に担いで帰ってきて、近所の人や友達を呼んで喜び合うというのです。神は、一人の人が悔い改めて、神のもとに帰ることを切に求め、回心して神に立ち返ることを最大の喜びとしておられるのです。神様は、私たちの罪をとがめ裁くのではなく、罪を赦したいと願っておられるのです。そのためにイエス様は来られたからです。神は豊かに赦してくださいます。
<聖書>
ルカによる福音書15章1~10節

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永遠の牧者イエス・キリスト

2014年11月9日(日) 主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

イエス様はご自身を羊の門にたとえました。イエス様が「私は羊の門です」というとき、それは「イエス様は救いの門」と言うことです。イエス様が、「私が道であり真理であり命です。私を通してでなければ誰一人父の御許に来ることはできません」といわれたとおりです。人類の歴史を通してこのようにご自身を真理であり永遠のいのちであるといった人はいません。クリスチャンはイエス様が真の神であることを認めて、イエスさまを信じて罪赦され永遠のいのちを頂いています。聖書は、人間を羊にたとえています。イエス様は、門の外にいる人間を羊飼いのいない羊に例えて、以下のように述べています。「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」門の外、そこは、荒野でありサタンの支配するところだからです。ある哲学者が言いましたが、「人間は言い知れぬ不安を持っている」というのです。それは実存の不安、今の存在の向こうにあるものへの恐れといえます。言い知れぬ不安、それは死後の不安です。死後の不安の原因は何か。潜在意識の中にある神に対する恐れ、そして死後の裁きへの恐れといえます。イエス様は「わたしは良い牧者である」と言われました。また、「わたしは羊のためにいのちを捨てます」と四回述べています。何のためにイエス様はご自分の命を捨てたのでしょうか。それは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」私たち人間を愛して、自らの罪のために滅びに向かっている人間をあわれみ、罪のない神の御子イエス様が身代わりとなってその罪の刑罰を十字架の上で受けてくださったのです。生まれつきのままでは、私たちは、神から離れて、神を無視し、自分勝手に歩き、滅びの道に進んでいた迷える羊です。良い羊飼いであるイエス様は、人間を探して見いだし、豊かに生かすために来てくださったのです。すべてのが過ぎ去り、自分の命さえなくなっても無くならないものを私たちはいただいているのです。それはイエス様です。羊飼いとして、イエスさまは私を導いてくださっています。いつもイエス様の声を聞き分けて従っていくものでありたいと思います。
<聖書>
ヨハネの福音書10章1~18節

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良い実を結ぶために

2014年11月2日(日) 主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

イエス様は御国の真理を種まきのたとえで語られました。種はみことばの種、福音です。土地は私たちの心です。みことばを聞いても悟らない例の第一は道端です。世の中の教育や慣習や常識によって踏み固められた心の持ち主です。幼い時から、神はいないと教育されてきているので創造主を認めないのです。日本人の多くはこの道端の土地ということができます。固く踏み固められた心の人々です。第二は岩地です。土は表面の浅いところしかなく、土の下には大きな岩があって信仰の根を張ることができません。自分を神に明け渡していないので、試練が来るとすぐに信仰を捨てるのです。心の岩は自我ということができます。第三はいばらの地です。土地はよいので、根を張り芽を出しますが、いばらのほうが大きくなって、上をふさいで実を結べない人です。これは優先順位の間違いです。イエス様を信じるのですが、世の心配事で、神の国とその義とを第一としないのです。家族の関係など優先します。また、富の惑わしに負けます。しかし、神様を優先していくと、富もあとからついてくるのです。また、家族も皆祝福されるのです。優先順位を間違えないようにしましょう。それらに対して、実を結ぶ地とは、みことばを聞いて実を結ぶ人です。柔らかな心、オープンな心でみことばを聞きます。みことばを自分に当てはめて、素直に悟り実行する人です。30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。この四つの土地は、誰もが持っている心の状態です。み言葉の種をまく方は神様です。神様はあえて悪い地にも撒いてくださるのです。私たちの心の状況に係らず、み言葉を与え続けてくださるのです。神は驚くべき寛容を示してくださり、そればかりでなく御子のいのちさえお与えくださいました。固い心にも神の愛の御手が臨むと耕されて柔らかくなりみことばを受け入れるようになるのです。わたしたちは、良い土地でありたいと思います。みことばを素直に受け入れ、従う心です。
<聖書>
マタイによる福音書13章1~9、18~23
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