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祈りと賛美が状況を変える

2016年06月05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き16章12~34節
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。
16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。
16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。
16:16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
16:17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。
16:18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

<要旨>

神のご計画

私たち人間が立てる計画と神のそれとは違っている事がよくあります。パウロとシラスは困惑しながらいったん北上し、その後西の方へ移動します。そして、トロアスに着きました。そこで、「マケドニヤに助けに来てほしい」という幻を見たのです。トロアスは地中海沿岸にある古い都市で、海を渡ればすぐマケドニヤです。パウロは、「主はこの幻を見せるために私たちをこのトロアスに導いたのだ」と確信しました。マケドニヤ地方の第一の植民都市であるピリピに到着し伝道しました。そこで、信仰に入った人々や家族が起こされました。そこにピリピの教会の誕生を見ます。神はみ心の全様を前もって示すのではなく、一歩一歩目の前のことを示されていくことが多いのです。それは、私たちが神を信頼して歩むためです。次がわからない、でも目の前の一歩は示されているということです。ずっと後になって、振り返ると主が私に歩ませてくださった地は乳と蜜の流れる地であったことがわかるのです。クリスチャンライフは、結果オーライの人生です。最終的なゴールは天の御国です。永遠のいのちです。想像できないくらい素晴らしい天国です。そこに至るまで、聖霊は、みことばを灯台のようにして、私の道の一歩先を示してくださいます。勝利のゴールは約束されています。その根拠は、十字架です。イエス様が神の子としての身分を捨てて、十字架で人間の罪の身代わりとなってくださったことにより、罪を取り除いてくださいました。そして、神との関係回復の道が完成されました。最初の人アダム以来受け継いできた罪がとりのぞかれたことにより、神との関係は創造の最初の秩序に戻ったのです。イエス・キリストを信じる者は神の子どもとされる特権を与えられる、とある通り、天の御国は信者のものとなるのです。

拘束されたパウロとシラス

ピリピの町で、宣教していたパウロたち一行にまとわりつく若い女性がいました。パウロはこの女性から悪霊を追い出しました。彼女の主人たちは彼女に占いをさせて儲けていたようです。悪霊が出ていくと女性は正気になって、占いをする力もなくなりました。彼女の主人たちは儲けるのぞみがなくなってしまいました。彼らはそれを恨んで、言いがかりをつけてパウロとシラスを訴えるのです。長官たちは二人をよくとり調べることもせずにむち打ちの刑に処して、牢に入れました。彼女は悪魔の奴隷でありました。そして同時に、複数の人間の奴隷でもありました。罪は人間を道具として、彼女から搾り取るのです。人間を自分の利益のために利用するのです。それは、人を自分の思うように使い、支配したいという欲望です。私たち人間が持っている罪の性質です。パウロとシラスは、何度も鞭で打たれて、役人は二人を奥の牢に入れて、足に足かせをかけて厳重に番をさせたのです。しかし、真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ神を賛美し続けていました。彼らは静かに祈り、人が聞き入るような美しい賛美をささげていたのです。彼らは、主の臨在を覚えていたのでしょう。「主に信頼していこう。必ず主は助け出してくださる。」と信じる信仰が与えられていたのです。苦しくて悲しいときにこそ、祈りと賛美が必要です。苦しみや悲しみに会うときにこそ神は近くにいてくださり、私たちを強め慰めてくださるからです。私たちは苦しい悲しいときにこそ聖歌を開いて、そして神に祈りましょう。神は必ずあなたの近くにおられてあなたにみことばを与え、生きる力で満たしてくださるのです。

看守一家の救い

突然、強大な地震が起きました。慌てて駆け付けた看守は牢の扉が開いているのを見て、皆が逃げてしまったと思い絶望します。そして、即座に自殺しようとするのです。その時、パウロの声が彼の耳に入るのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と。看守は彼らの前にひれ伏して、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言いました。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。看視は、思わず、彼らを神と思ったのでしょう。「救われるために、何をしなければなりませんか。」それに対して二人は、主イエスを信じなさいと答えました。そして、彼と家のもの全部に主のことばを語りました。当初看守は絶望して、死ぬより仕方がないと思い、腰に帯びた剣を抜いて自害しようとしました。家族のことが心に浮かんだでしょう。自分が死んだら、妻や子どもたちをだれが面倒見てくれるだろうか。その時に「自害してはいけない」そして、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とのことばを聞いたのです。そしてその通りに、看守の家族は全員バプテスマを受けて救われたのです。この時以来、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」のみことばは、家族の救いを願うすべての信者に約束として与えられています。私たちは、この約束を信じて祈っていく必要があります。私の家族を考えると、一人ひとり神様は救いに導いてくださいました。私たちは、家族の救いのためにどんな困難と思われる状況も主が開いてくださると信じ、主を信頼して毎日祈りましょう。

クリスチャンと成長する教会

2016年05月29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き11章19~30節

11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。
11:28 その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。
11:29 そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。
11:30 彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

<要約>

最初の異邦人教会

ステパノのユダヤ人たちによる迫害によって、信者たちはエルサレムから散らされて、異邦人の地に行きましたが、ユダヤ人以外には誰にもイエス・キリストのことを話さなかったのです。イエス様の救いが全人類に及ぶものであることまでは理解が進んでいなかったようです。ところが、北の大都市アンテオケに移り住むようになったユダヤ人たちはユダヤ人以外にも福音を伝えるようになりました。そこでは、多くのギリシヤ人たちがイエス・キリストのことを信じたのです。そのことを聞いたエルサレム教会は聖霊と信仰に満ちた人バルナバをアンテオケ教会に派遣します。そこで多くの人々が救われて、バルナバは、パウロをアンテオケに連れてきて、一年の間、アンテオケ教会の信徒を訓練するのです。キリストこそ全人類の罪を贖ってくださった方であることを大胆に伝えました。十字架と復活により、罪の赦しと、それに伴う永遠の命の約束が与えられます。自然界も人間の罪により呪われたものになったと聖書に書いています。そのため、自然界は秩序を失ってきています。地球温暖化も自然災害もその通りです。私たちの世界は、不条理と思われることで満ちています。最大の不条理は、人間は死ぬということです。聖書は、人間は肉体のいのちを失った後、霊は神の前に立たされて、罪に対する裁きがなされると書いています。ですから、死に対して漠然とした恐れがあります。同時に、人間には、永遠を思う心があります。決して変わらないもの、一点の偽りもない真実なもの、決して見捨てない方、永遠に続くもの、絶対者である神へのあこがれです。そこで、父なる神がそのひとり子イエス・キリストを人間の罪の裁きの代価として十字架にかからせたのです。キリストの身代わりの死によって罪は取り除かれました。信じる者は罪赦されて神と和解し、神に近づくことができるのです。神の動機は、愛です。聖書は、私たちが想像し経験するすべての不条理を覆い包む方、決して見捨てず、最後まで愛し貫いてくださる方、永遠なる方、絶対なる方、真実な神、一点の汚れもない聖い方、がおられて、あなた個人を愛していると宣言しています。

主の恵みにとどまる教会

バルナバは、アンテオケの教会を見て、「神の恵みを見て喜んだ」のです。アンテオケ教会には、当時、迫害を免れて祖国を去って来たユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがおりました。両者の間には生活習慣に大きな違いがありました。異邦人クリスチャンには、割礼や食物についての規定はありません。ユダヤ人の信者の場合は、割礼を受け、様々な律法の規定に生きていました。そこで生じたのは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの対立です。そのような状況も読み取って、エルサレム教会は信仰と聖霊に満ちたバルナバを派遣しました。バルナバは、ユダヤ人と異邦人との問題を取り上げるのではなく、「神の恵みを見て喜んだ」ことです。そして、みな心を固く保って、常に主にとどまるようにと励ましています。教会には様々な問題があります。罪人の集まりですから、反対やつまずきなどもたくさん起こります。しかし、私たちは、そこに神の恵みを見ていくということが大切です。これは個人の人生においても同じです。人生の旅路は困難や戦いはつきものです。しかし、文句を言うのでなく、神の恵みを見ていくという視点がその人の人生を変えます。

隣人愛と宣教に生きる教会

エルサレムから預言者アガポが来て、飢饉が起こると預言しました。そこで、アンテオケ教会は救援の物資をユダヤに住んでいる兄弟たちに送ることに決めました。彼らはそれぞれの力に応じて捧げました。それは祝福される教会の姿です。これは祝福されるクリスチャンの姿とも言えます。イエス様は、クリスチャンにすべての律法を包括する教えとして、次のように言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』そして、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」と。全身全霊をもって真の神を愛しなさい、そして、自分のように隣人を愛しなさい、というのです。この後、アンテオケ教会は宣教師を送りだします。このように教会の使命は、隣人愛の実践と宣教ということになります。これはクリスチャン一人一人に託されている使命と言えます。

回心し主の恵みに生きる

2016年05月22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き9章1~22節
9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
9:21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

<要約>

残酷で無慈悲なパウロ

サウロは、宗教人としても誰にも負けない律法の知識と神への忠誠心を持っていました。さらに、ローマの市民権も持っていたので、エリート中のエリートでした。パウロの誇りは律法の順守です。自分自身について、「律法による義についてならば非難されるところのない者」だと言明したほどです。そのサウロが「あなたは律法を守っていない、聖霊に逆らっている」と言われて怒り心頭に達して、この道のものを迫害することに熱心になったのです。人間の誤った熱心は、どんなにか恐ろしいものであるかを示しています。当時、パリサイ人や律法学者という人々は、律法を守っているので、神の前で正しい、すなわち、義であると自らを考えていました。神に近づいていると錯覚していますが、実は神から遠く離れているのです。神を喜ばせる信仰ではなく、自己中心の信仰です。彼らにはキリストの十字架は必要ない、十字架に敵対して歩んでいると言えます。律法は神のみこころですので、律法を守ろうとするのは良い事です。その時に、律法を守ろうとしても守ることのできない自分の心の罪に気付き、謙遜にされるのです。そして、神を見上げ、神の恵みの中に生きようとします。それが、神との正しい向き合い方です。しかし、律法主義は、「自分自身の義を立てようとする」ことです。すなわち、自分を神の前で正しいと自己主張するのです。自分は律法を守っていると誇示するのです。パウロ自身は熱心に律法を守り、そして、律法による義なら非難されるところがないとまで言いきりました。しかし、心の罪には気づかなかったのです。回心の後、パウロはそのことに聖霊により気づいたのです。

呼んで会ってくださるイエス様

イエス様から「サウロ、サウロ」と呼ばれたこのダマスコ途上の出来事が使徒の働きの中に三回記されています。パウロは、生涯この事件を思い起こしては慰められて励まされていたのだと思います。パウロは、様々な試練や問題に突き当たったとき、イエス様とお会いしたことを思い起こしては何度も強められたのです。皆さんもパウロほどの劇的な体験はなくても、イエス様とお会いした時、回診したとき、あるいは洗礼を受けた時を思い起こすのです。そして、神様の恵みと憐れみを思い起こして立ち上がるのです。それがクリスチャンライフです。パウロは、アナニヤの祈りによって目が開かれるとすぐに、「イエスは神の子」であると諸会堂で述べ伝えました。聖霊ははっきりとパウロに、イエス様は神の子であり救い主であることを伝えたのです。パウロは「では、なぜ、神が十字架で死ななければならなかったのか」という問いについて、多くの日数の間、アラビアに退いて聖書を読み直したのではないかと想像します。神の御子が人間の罪のためになだめのかおりの供え物になったのです。かつて、イスラエルでは、罪を贖うために傷のない動物を神殿に携えて、自分の罪をそれに着せて、殺し血を流しました。それにより、祭司はその人の罪は赦された、と宣言します。それらは律法に定められてきたことですが、罪のない神の子イエス・キリストの十字架の予表であったのです。動物は何度も贖いの代価としてささげられたのですが、イエス・キリストは人類のすべての罪の代価としてただ一度だけ十字架で身代わりとなって死んでくださった事によりそれを信じ受け止める者の罪は赦されて永遠のいのちに与るのです。神のみこころは私たち人間が聖くなることです。すなわち、罪汚れのないものとして、神の前に立つことです。しかし、律法によって、人間は神の聖さから遠く離れていることに気付くのです。神と人間の間の隔ての壁になっているもの、それが人間の罪です。キリストの十字架によって、罪が取り除かれてはじめて、神の前で聖いものとされるのです。

主のために苦しみ喜ぶパウロ

神はパウロが、キリストの名のためにどんなに苦しまなければならないかをパウロに示すつもりであると言われました。イエス様に選ばれたものは苦しまなければならないということです。それはパウロのことで、私たち一般のクリスチャンには関係ないと言わないでください。聖霊は、このみことばを読者一人ひとりに投げかけておられるのです。イエス様を信じ、洗礼を受けて、聖霊をいただいたものは皆、聖書のことばは一点一画も落ちない、すべてのことばは神の霊感によって書かれたものであると信じなければなりません。クリスチャンは、神から特別に選ばれた者たちです。そして、神から使命が与えられています。それが、イエス様を運ぶ器であるということです。大きな器も小さな器もあるでしょう。しかし、すべての信者は器なのです。土の器だけれども、イエス様を運んでいるのです。すなわちイエス様を届ける使命があるということです。イエス様の救いをまだ信じていない人々に伝えるということです。家族、知人に伝えるということです。イエス様の素晴らしい救いです。神のいのちです。他のどのような宝も比べ物にならない祝福です。パウロは苦しみましたが、また、喜んだ人でした。ピリピ人への手紙を読むと獄中から、喜びの手紙と言われるくらい喜びという言葉がたくさん出てきます。本当にパウロは喜びにあふれた人であったのです。これはイエス様を信じる者たちに与えられる特権です。

教会を産み育てる聖霊

2016年05月15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章22~42節
2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

聖霊とみことばによる教会の誕生

復活の主が天に昇られるときに弟子たちに聖霊降臨の約束をしました。その後、弟子たちはエルサレムの部屋で120名ほど集まって祈っていました。イエス様の昇天から10日ほどたった五旬節、ぺンテコステの日に、聖霊が弟子たちに下りました。ペテロの説教により悔い改めて洗礼を受けた人が三千人ほどが加えられてエルサレムで最初の教会が誕生しました。教会は、聖霊によって生み出されました。エルサレムで始まった教会はギリシャ・ローマ社会に広がり、全世界に広がり、現在も神の国は述べ伝えられ続けています。この時以降、聖霊の時代が続いていると言えます。ペテロの説教以来、説教の声は教会の中に途絶えることはなかったのです。現在も、全世界の教会で語られる説教を通して、すべての人々に福音が届けられているのです。また、クリスチャンの証を用いて宣教が拡大しています。聖書のことばは食物のように毎日読むように私は皆さんに勧めています。なぜなら、神様は聖書のことば、みことばを用いてお語りになるからです。聖書を読むときは祈り心で読んでいただきたいと思います。そうすると、み言葉が皆さんの心に響き、あなたの生活に行く道を教えてくださいます。

ペテロの説教

エルサレムにはユダヤの祭りのために、内外からユダヤ人たちは大勢集められていました。そのような中でペテロが立ち上がり、説教をしました。ペテロは、イエス・キリストについて語り、十字架と復活を語りました。神があらかじめ人間を救うために計画し、実行されたことでありました。その方キリストは、人類の罪の清めをなし、神の右の座に着かれました。イエス様は全人類の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれ死んでくださった、そして、死んだばかりではなく、神の力により復活して天に昇られた。そして、信じるすべての人を罪と死と悪魔の力から救い出してくださいます。次に、ペテロは群衆に、「約束の救い主イエス・キリストをあなた方は十字架につけたのだ」と断罪しました。ここには、イエス様を十字架につけることには直接かかわっていない人々ばかりでした。お祭りのために外国から来た旅行中の人々でした。しかし、ペテロは「あなた方が十字架につけたのだ」と断罪しました。聖霊は教えています。このペテロのメッセージは当時のユダヤ人だけでなく、全世界の人々、全時代のあらゆる人々に向けられているのです。ですから、ここにおられるあなたに向けられているのです。聖霊は伝えています。罪のない神の御子が極悪非道の者として処刑されなければならないほどに人間の罪は重いのです。人々の悪口は、人の心にある悪い考えから出てきます。心で人を殺し、そして、言葉で殺すのです。高ぶりや愚かさはどうでしょうか。人のことを非難するけど、自分のことは棚に上げているのです。姦淫や不品行はどうでしょうか。四十歳くらいのカップルが妊娠をしたということで相談にきました。彼ら双方ともそれぞれ結婚していました。彼らは自分たちの恋愛を切なく美しいものと思っていたようですが、他の人の目にはそれは非常に不潔で汚いものでした。このように、どんなに汚らわしい事でも、人間は自分のことは純粋で美しく思えるのです。人間の心は腐りきっていると聖霊は指摘しています。「人々はこれを聞いて心を刺され、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』とペテロのメッセージを自分のことと受け止めたのです。罪を示されて悲しだのです。ペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」新しい人に生まれ変わるのです。賜物として聖霊を受けるのです。洗礼を受けると聖霊なる神があなたの中に住んでくださいます。神のいのちが与えられています。永遠のいのちです。十字架により罪の束縛から解放されています。

教会の成長

ペテロは、「この曲がった時代から救われなさい」と勧めます。また、世と調子を合わせてはいけませんと勧めます。クリスチャンはこの世と分離しなければなりません。しかし、世の中に出て行って世の中に浸透していかなければなりません。世の中の人間関係を大切にしながらキリストを伝えていくのです。クリスチャンライフの中心に置くべきことが書かれています。一つは、聖書の教えを学び、それを実行するということです。聖書に生きるということです。二つ目は、「交わりをする」ことです。これは、教会の礼拝に出席して兄弟姉妹の交わりを大切にするということです。次に「パンを裂き」というのは聖餐式です。聖餐式はキリストが定めた特別な恵みと祝福です。これを守りなさいというのです。「祈る」ということは、教会で、家庭で、そして個人の生活の中で、祈り続けなさいと勧めます。クリスチャンライフは決して、難しいものではありません。みことばと聖霊が教えてくださるように歩いていけばよいのです。新しい命に生きる喜びをぜひ自分のものとしていただきたいと思います。

求め続ける者に無限の恵み

2016年05月08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書15章21~28節
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

<要約>

願い叫び求める信仰

カナン人の女性が、叫び声をあげて、イエス様に近づきます。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と。イエス様は彼女に一言も声をかけないでいました。ここを読んで「えっ、イエス様らしくないよ」と思われたでしょうか。ここでイエス様が黙っておられたのには、意味があったのです。彼女は叫びながらついてくるという状態です。しかし、イエス様の答えは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」でした。すなわち、異邦人に注ぐ恵はないと言わんばかりでした。神は、私たちの信仰を試すためにすぐにはお答えにならないことがあります。その願いが本物であるかを見られるのです。彼女は、カナン人であると書いています。カナンにはバアルとかアシュタロテ等偶像の神々があります。魔術師もいました。そのようなものの一つとして、イエス様を見ていた可能性があります。この女性は結果的には違いました。しかし、次の様にして近づいてきた人も多くあったと思います。「イエスという方は悪霊追い出しの特技を持っているそうだ。そのご利益にあやかりたい、とにかく、ひれ伏して大声で叫んでみよう。もしかしたら、通じるかもしれない」と。利益追求の信仰は、人格的交流がありません。神は人格を持っておられます。そして、人格的交流を求めておられます。わたしたちの創造主で父である神の求めは、私たちが神を恐れ、愛し、信頼することです。神以上に大切に思っているものを持ってはいけません。何にも増して神を優先しなければなりません。神を第一にしなければなりません。それが、神が私たち人間に求めていることです。イエス様は、この女性の信仰を試されました。一旦、イエス様はこの女性の申し出を断った形です。しかし、女はその冷ややかな応答にもめげず、「主よ。私をお助けください」と食い下がりひれ伏して懇願します。

立派な信仰

この女性は、主のみこころにかなう応答をしました。自分が子犬であることを受け入れて、謙遜にされて、機知の富んだ返答をしました。この女性は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」「イエス様が子どもたちのパンを取り上げて子犬に投げてやるのは良くない」と言われたとき、この女性は、とっさに食卓での状況をイメージました。食卓のテーブルに向かって子どもたちが座って食事をしています。そのテーブルの下で、しっぽを振りながら子供たちを見ている子犬です。それは、野良犬ではなく愛玩用のペットです。この女性は、現にメシヤがこの異邦人の地まで来ておられるという事実を見て取ったのです。そして、こう言いたかったと思います。「メシヤが、選民であるイスラエルの民のために来られたことを十分に承知しています。ですから食卓に着くべきは選民です。しかし、選民が十分に食べた後、主人に愛されている子犬が食卓の下にいます。余ったパンをいただいてもいいではありませんか。イエス・キリストの救いはイスラエル民族を超えて異邦人の世界にもあふれ出ているのではないですか。」この女性はこの真理をつかみ、とっさに機知に富んだ返答をしたのです。イエス様は、彼女に応えて、娘は癒されました。私たちクリスチャンも執拗に熱心に祈ることを主は勧めています。求め続ける時に、逆に信仰が強められるのです。神に試みられるとき、求め続けます。それは忍耐がいることです。忍耐するときに練られた品性が生まれ、練られた品性は希望を生み出すのです。この世にあって、様々なことが起こります。でも、失望しないで、主に祈りましょう。諦めないで主を求めましょう。主はそのことを勧め、また、そのような信仰を喜んでくださっているのです。

無限の恩寵に生きる信仰

神はアブラハムを選びました。アブラハムの子孫であるイスラエルを祝福し、次にイスラエルを通して、世界の諸民族を祝福すると約束されました。イエス様もその順序に従い、イスラエルに神の国の祝福をもたらしました。しかし、イスラエルがメシヤであるイエス・キリストを拒んだので、異邦人にこの福音は届けられてすさまじい勢いで全世界に広がっているのです。この女性は、神の恵みが異邦人にも及んでいることを直感していたのでしょう。そして、神の恵みが豊かであることも信じていたのでしょう。食卓から落ちるパンくずもパンに変わりはないのです。この女性は、自分の子どもの癒しのために大胆に主に求めたのです。自分は恵みを受ける資格のないものかもしれないが主のあわれみは尽きないはずだ、余ったパンの信仰です。その信仰を主は誉められました。キリストの救いの恵みは尽きることがなく無限の恵みであるということです。イエス様の十字架は全知全能の神の完全な行為です。異端は、イエス様の十字架は神の失敗であると言います。絶対そんなことはありません。イエス様は神で全く罪のないお方でした。全く罪のない神が人類のすべての罪を負って身がわりとなってくださった。これは完全な神の完全な行為です。キリストの罪の赦しの無限性であります。すなわち、どんな罪でも赦されるということです。福音の無限の恩寵です。無限の恩寵というのは、あなたの未来に向けられていることです。過去を振り返るのはやめましょう。過去の罪はすべて赦されたのです。あなたがイエス・キリストの十字架を信じ続けるならば、未来にわたって永遠にあなたは神の恵みの中に生き続けることができるのです。無限の恩寵に対する応答は無限の感謝です。

失われた人を探し新しくするイエス

2016年05月01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書19章1~10節
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
<要約>

失われた人ザアカイ

税金を取り立てる取税人は、ローマの手先となって民から税金を徴収するので嫌われていました。そして、彼らは決まった額以上に取りたて、私腹を肥やしていたようです。ザアカイは金もうけに人生をかけていた人です。お金があれば何でも手に入ると思っていました。それで、人一倍努力したでしょう。しかし、ザアカイは孤独でした。人々からはのけ者にされていたからです。ザアカイという名前は、正しい人という意味だそうです。日本人の名前で言えば、義人というところです。彼はユダヤ人ですから、律法も、十戒も知っていました。かれは人からお金をだまし取っていたのです。最初は、罪責感もあったと思いますが、自己正当化をして罪の意識もなくなってしまったのです。本来良心が私たち人間に心の叫びとして罪を示し、神のみ心を教えます。しかし、受け継がれた罪により、私たち人間の良心は全く曇ってしまっています。あるいは良心はマヒしています。十戒は心の鏡として、私たちに罪を教えるのです。十戒は神のみ心です。十戒は神の要求です。そして、十戒は、人間のうちにあるすべての罪を探しだすのです。十戒はすべての人に鋭く罪を指摘し罪に対しては容赦のない裁きを下すと言うのです。ですから、「神を恐れることは知識のはじめです」と箴言にありますが、子供から大人まで、神を恐れることを学ばなければなりません。そして、罪を放っておくことはできないこと、日々イエス様の十字架を仰いで罪の赦しを受ける必要があることを知らなければなりません。ザアカイの姿は、神から遠く離れた人間の姿です。神を無視し、神のみ心を求めることもない人間の姿です。神のいのちを持たない、あるいは神のいのちを失った人間は、どんなに富やお金、あるいは社会的な名誉や地位を得ても真の満足はありません。アウグスチヌスは言いました。「人間の心には造り主である神にしか満たすことのできない空洞がある。」と。その空洞を満たそうと人はいろいろなものを求めます。しかし、創り主である真の神以外はそれを満たすことができないのです。ですから人間が求めるものはみな神の代用品です。富も名声や地位も神の代用品です。心がむなしくなって、真の神ではない神、偶像を求めるのです。一時的に満たしてもすぐ渇くのです。なぜなら、人間は創り主のために造られたからです。ですから、創り主である神を知らず、神から離れている人間を、聖書では「失われている」と言います。

探して声をかける イエス

そのザアカイが、そこを通られるイエス様を何とか見たいと思いました。イエス様については、取税人や遊女や罪人と言われている人々を差別することなく、むしろ彼らの友として歩んでくださった。そのような人々に近づいてくださる愛の方であると聞いていたでしょう。自分のようなものを受け入れて愛してくださるだろうか。走り出てイエス様が通られる道端にあるイチジクくわの木に登って待っていました。イエス様は、上を見上げて、「ザアカイ、降りてきなさい。」と名指しで声をかけられました。ザアカイは大喜びで降りてきました。考えてもいない突然のことでした。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。「あなたが私を選んだのではない。私があなた方を選んだのです。」とある通りです。私たちは自分でイエス様を信じたと思っています。しかし、イエス様の方から私たちを選んでくださったのです。私たちに声をかけてくださったのです。ザアカイは今まで登る人生でしたが、これからは下る人生に、集める人生から与える人生に変えられたのです。今までは出世をすることが目標でした。それが、へりくだり謙虚になってみこころを行うことが目標となったのです。ザアカイは立って、主に言った。「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」それは、ザアカイが福音の素晴らしさを見出したからです。人は罪を指摘します。しかし、イエス様はザアカイの罪を指摘するよりもザアカイを救いに導いたのです。最初に、彼を呼び、受け入れ、今日、あなたの家で泊まることにしているからと言って、ザアカイに愛を示したのです。イエス様が、人を裁くためではなく救うために来られたと言われた通りです。そして、イエス様は、失われた人を捜して救うために来たのです。ザアカイは、心のあるいは霊の空洞を埋めるものを求めて、これまで、懸命に生きていたということもできると思います。イエス様が彼を探して彼の罪を赦しその心に聖霊を与え、永遠のいのちをお与えになったのです。

救いの祝福を分け合う人生

ザアカイは、イエス様に呼ばれて、イエス様を神と信じて、自分の罪を赦していただきました。ザアカイは、救いの福音の素晴らしさを発見しました。福音は良い知らせです。グットニュースです。それは人間の耳に、そして心に全く新しいことです。神が人となって来てくださり、人間をその罪の縄目から救ってくださったこと。そればかりでなく、私たち一人ひとりの罪を贖い清めてくださったこと。そのために神のひとり子が全人類の罪を引き受けて身代わりとなって十字架で死と呪いの裁きを受けてくださったことです。そのことを信じて受け入れる者は救われて、神の子とされる、天国の一員となる、永遠のいのちが与えられるということです。天国行の切符をいただくということです。福音は天国の国籍をいただくこと、ともいえます。天国の素晴らしさを教えるためにイエス様はたとえ話をされました。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、良い真珠を捜している商人は、すばらしい値うちの真珠を一つ見つけて行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。福音の素晴らしさを本当に知ったら、持ち物全部を売り払ってもそれを手に入れようとするというのです。それほど、素晴らしく値打ちのあるものなのだ、ということを教えているのです。そしてそれは、無償で神が与えてくださると聖書は述べているのです。イエス様は、それを所有しなさいと勧めています。イエス様が完成してくださった十字架の救いを信じることです。あなたのために十字架で死んでくださったことを素直に信じ受け入れることです。これからの人生は神に信頼し、神に頼っていくのです。新しい生き方です。また、天に宝を積む生き方です。自分の利のためではなく、神と隣人の利のために生きることです。そのように生きるなら祝福されると約束しています。是非、この新しい人生を選び取って行っていただきたいと思います。

キリストの支配に移された男

2016年04月24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書8章26~39節
8:26 こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。
8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
8:28 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」
8:29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。
8:30 イエスが、「何という名か」とお尋ねになると、「レギオンです」と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。
8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。
8:32 ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。
8:33 悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。
8:34 飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。
8:35 人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。
8:36 目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。
8:37 ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。
8:38 そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。
8:39 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

<要約>

イエス・キリストは圧倒的な勝利者

イエス様はゲラサ人から悪霊を追い出すために、湖を渡ってこられました。イエス様には悪霊を追い出す力がある。悪魔に対しても圧倒的な勝利者であるということを示しています。神は二種類のいのちあるものを造られました。目に見える者と見えないものです。目に見えないいのちの主なものは天使です。天使は、神をほめたたえるために造られ、神のみこころをなし、神が創造されたものに仕える力ある霊的存在です。悪霊とは悪い天使です。ある時、高慢と不従順のゆえにサタンと共に、神に逆らい、神のみこころを拒み堕落した天使で悪い天使です。そして、サタンと言われる悪魔とは、悪霊のかしらで、エデンの園でアダムとエバを誘惑し、続けて神に背き神の子たちすなわち信者に敵対するものです。人間は自分の力では悪魔や悪霊に勝つことはできません。イエス様の力と恵みによって私たちは勝利することができるのです。悪魔は人殺しで、真理がない、偽り者です。すべての悪の策略はサタンから出ています。人間を陥れて、殺すこと、ゲヘナ、すなわち地獄へ落とすことに一生懸命です。また、聖書は、サタン、悪魔は「告訴するもの」であると書いています。罪を神に訴えるのです。クリスチャン達をサタンは神に訴えています。ですから、クリスチャンは、常に信仰が問われているのです。

悪魔の支配下にある人間社会

この世界はこの悪魔と無数の悪霊によって、支配されています。最初の人間の堕落以来、すべての人は罪過と罪の中に死んでいるとあります。現代の人間社会もサタンの支配下にあります。サタンは人類を操り人形のようにして、悪いとわかっているけど、いけないと思うのだけれども、行わざるおえなくしているのです。人類の歴史を見ても、争いと殺戮の歴史と言えます。戦争がない時代はないと言われるとおり、地球上のどこかで絶えず戦争が行われています。テロは民族や宗教を超えて、多くの若者が格差や差別に対する復讐心にかられてアイエスに参加しているのです。悪霊に着かれたゲラサの男から、悪魔の支配下にある人間の様子がわかります。人間は、悪魔や悪霊の支配下にあるとき、このゲラサ人のように多かれ少なかれ罪の力によって苦しめられていると言えます。多くの人々は真のいのちを持っていません。現代では、自分と折り合いをつけるのが難しくなってうつ病など心の病になっている方々も多くいます。また、罪の束縛によって自由を失っています。たばこや酒に飲まれて、やめられないというのは自由を失っているということです。悪い生活習慣から離脱できないのです。もう一つ、今日の箇所で注目したいのは、悪霊を追い出され、正気になった男を見たゲラサ地方の民衆の反応です。彼らはすっかり恐れて、イエス様にこの地方から立ち退いていただきたいと願ったことです。恐れによって、神の子イエス様を遠ざける人間の姿です。現状の安定により、真の救いに心を向けることができない人間の姿です。

神の支配下に移してくださるキリスト

この男は、救われました。これはイエス様の一方的なみわざでした。サタンの支配下からキリストの支配下に移されたのです。イエス様を信じる者は、神により、イエス様の支配に移されているというのです。この男は、悪霊を追い出していもらい、同時に罪の赦しを得て救われたのです。信じる者は神の支配に移されたと言っても、目に見えない世界でのことです。依然としてこの世に生活している者たちです。ですから、イエス様は言われました。「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったからです。」イエス様は信じる者と共にいてくださいます。イエス様は信じる者のシェルターになってくださっています。サタンの攻撃も及ばないのです。今日のお話で、イエス様に対する応答は二通りありました。一つは先ほど述べたゲラサ地方の人々の応答です。イエス様に、離れていただきたいという反応です。もう一つは、悪霊をおいだしてもらった男の応答です。しきりにお供をしたいと申し出ました。しかし、イエス様はその土地にとどまり、福音の証人として、神の大いなるみわざ、そして神の大いなるあわれみを家に帰って話しなさいと命じました。かれは、イエス様のことを夢中で町中に広めたのです。これが私たち、キリストの支配に移された者たちの使命と言えます。神は、聖書を通して、福音に対する応答を求めています。あなたは、近づいてくださるイエス様を拒絶するのか、また、イエス様を信じ従うのか、今日も応答を求めておられるのです。心の中で「はい」といって、喜んで信じて従う者となっていただきたいと思います。

目が開かれ神の栄光を見た男

2016年04月17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書9章1~12、38,39節
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。

9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

<要約>

人生の不条理の中でイエス様に出会う

イエス様一行は旅を続けていました。イエス様は道の途中で生まれつきの盲人に目をとめられます。弟子たちが、イエス様に質問します。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と。それに対して、イエス様は「この人でも、その両親でもない、誰の罪でもない。」と言われました。「神のわざが現れるため、神の栄光が現されるためだ」と言われたのです。このイエス様の言葉は、この盲人にはこれまで聞いたことのない言葉だったのです。一般に障がいは因果応報で罪の結果と考えられていました。人間は不条理なことが起こると、何が悪い、誰が悪いと言って、原因を探求して責める傾向になりやすいのです。しかし、イエス様はそれらを通してあなたに向き合ってくださるということです。悲しみや苦しみを通してイエス様はあなたを招いてくださっているのです。苦しみ悩む者に近づき、悩みの中で神の恩寵である福音を教えてくださるのです。その福音とは、神のみ子イエス・キリストが私たちの身代わりとなってすべての罪を背負い、呪われたものとなって十字架で死んでくださったこと。さらに三日目に復活しでくださったこと。そのイエス・キリストを信じる者は罪赦されて永遠の祝福の命が与えられるということです。決して奪われない復活のいのちの希望に生きることができるのです。

世の光としいて目を開いてくださるイエス様

イエス様はいのちの源、いのちをお与えになる方、いのちの創造者です。私たちのいのちは創造者である三位一体の神から来ています。その方が光となって臨んでくださいます。目の見えない人が見えるようになります。心の闇に光を与えます。物事の本質を照らし真理を明らかにするのです。イエス様は唾で泥を作って彼の目に塗ります。そして、シロアムの池に行って目を洗いなさいと勧めます。その通りに実行して彼は見えるようになりました。これは、イエス様がメシヤ、救い主であることの証明でした。また同時に、見えると思っている者が実は本質を見ることができないことに気付かせるのです。肉体の目は開いていても心のあるいは霊の目は盲目であるというのです。「わたしが世にいる間、私は世の光です」と言われました。イエス様が世にいる間とは、福音の時代を指します。イエス様は目には見えませんが、現代も働いています。世の光として世界を照らし、人々に真理を示して、救いの福音を提供しています。福音を聞ける時代は今のうちだというのです。現代も多くの人が、心の目、霊の目の視力を失っていると言えます。イエス様を信じて目を開いていただきましょう。

神の栄光を見させていただく人生

「この障がいは神のわざ、神の栄光が現されるためのものである」とは、どういうことなのか、彼は、これまで聞いたことのない言葉の意味を考えていました。イエス様が唾で泥を作って目に塗ってくださいました。そして言われた通りシロアムの池に行って目を洗ったのです。神のわざ、それは、輝く栄光の御業です。彼はどんなに喜び踊ったことでしょう。帰って来て、おそらく喜び飛び跳ねていたので、近所の人々や通りがかりの人々も驚いたようです。彼は、彼自身の上に神の栄光があらわされたのを見ました。彼はイエス様を信じ拝し、信仰告白したのです。全盲の福音歌手である新垣勉さんは、1952年に、メキシコ系アメリカ人と日本人の母との間に生まれました。出生後まもなくして不慮の事故で全盲となりました。1歳の時、両親は離婚し、父は米国に帰り、母は再婚し、母方の祖母に育てられました。その後、14歳で祖母を亡くし、天涯孤独の身となりました。ある時、ラジオから流れる教会の讃美歌に心を惹かれて、教会に通うようになり、そこでイエスさまと出会いクリスチャンになりました。この世に生まれ事故で盲目となり、両親に捨てられて、実に不条理な人生を歩んできました。その苦しみを通してイエス様に出会い、そして父親を恨み殺そうとしていたものが、その父に感謝するものに変えられたのです。ここに神のわざの栄光を見るのです。今日もここに集っている方々は、イエス様が招いてくださって、それに応じてきてくださった方々です。あなたを通して神の栄光を現そうとしておられるのです。信じる者に神は栄光の現れを約束してくださっています。信じて、あなたの上に表される神の業を見せていただきましょう。

罪の滅びから見出された男

2016年04月10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書5章1~18節
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」
5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

<要約>

罪によって失われた人生

この男はイエス様から、「よくなりたいか」の質問を受けて「はい。良くなりたいです」とは答えずに、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と言いました。このベテスダの池は間欠泉であって時々、池の水が噴き出る時に最初に池に入った者は病気が癒されるという言い伝えがあったのです。長い間、彼の人生の目標は、池の水が動くタイミングに、一番先に池の中にはいることでした。そればかりではなく、移動することのできない彼のお世話に誰かが来てくれていたのでしょう。誰かが運んで日中は物乞いをしていたのかもしれません。そして、普段はベテスダの池の回廊で雨露をしのいでいたのでしょう。長い惰性の生活の中で、本来の目的を失って、池にはいることが目的となっていました。彼は肉体ばかりでなく、心も病んでいました。誰も自分を池に入れてくれる人はいない。責任転嫁と弁解の人生。人任せで無気力な人生。これは、失われた人生と言えます。イエス様は「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。」と言われました。彼の病は罪と関係していたものの様です。聖書は、病気には罪が起因して起こるものと神の栄光が現されるためのものがあります。現代でも罪に起因した病気はあります。不摂生や暴飲暴食もそうでしょう。悪い生活習慣で起こす病気もあります。自分の身体を正しく管理しない罪です。しかし、最初の人アダムの罪によって人間に死が入りました。それ以来すべての人は、病と死を経験するようになったのです。人間は自分を神の上に置こうとしました。それ以来、人類は神に対抗して歩んできました。創り主である神を認めようとしません。現に多くの人々は神から離れて人生を送っています。その状態が罪の状態です。聖書は、すべての人はその罪により失われているというのです。この男のように、心がやむ、孤独、傷つく、自分よがり、自分さえ良ければよい、責任転嫁と弁解、無気力は、現代も世界中の人々を覆っている大きな問題です。個人レベルでも、民族レベルでも、国家レベルでも、人間を支配しています。

主はみことばにより信仰に火をともしてくださる

なぜ、イエス様は「よくなりたいか」と質問されたのでしょうか。それは、かれに、思い起こさせるためでした。「そうだ、自分は38年前に神に病気を治していただきたいという一心でこのベテスダにやってきたのだ。」イエス様の顔を見上げて、彼は自分の記憶を呼び覚ましたのです。イエス様は、彼の消えかかっていた信仰に火を灯したのです。みことばが「記憶を呼び覚まさせて」、聖霊が、みことばに働いて、私たちの信仰を奮い立たせてくださるのです。また、「死者の中からよみがえったキリストをいつも思っていなさい」と聖書は勧めます。そのためには、私たちは絶えず、みことばを新しく聞く必要があります。イエス様の十字架と復活の救いの福音は、神の行為で人間が作り出したものではありません。それは人間の心には全く新しいものです。前代未聞のものです。ですから、福音は理解できてもひとり子を死に渡された神の傷み、そして、その背後にある神の愛の深さを人間は実感できないのです。神のすべてを人間が説明できないように、福音の素晴らしさの全容を人間は説明できないと思います。ですから、絶えずイエス様の福音を聞いていなければならないのです。そして、聞くたびに新しいのです。毎週説教を聞かなければなりません。毎日聖書を読まなければなりません。なぜなら、信者の信仰生活全体、イエス様との交わり、これらすべてがみことばにかかわっているからです。この男は、「よくなりたいか」と言われて、信仰が与えられました。そして、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」との宣言をいただき、立ち上がったのです。私たちは本当に幸いな時代に生きています。この一冊の聖書を通してみことばをいただいています。みことばは、私たちにイエス様をいつも思い起こさせて、日常の生活の中で様々なことがらに対応できるようにしてくださいます。また、イエス様の十字架と復活に思いをはせて、赦しをいただき強められて、神に喜ばれることを進んで選び取って生きるのです。それがクリスチャンライフです。

罪を赦し立たせてくださる主

この記事と内容が似ている記事がマルコ2章にあります。中風の男が癒された記事であります。四人の友達が屋根をはがして中風の男を床のまま、イエス様の前につり下ろしました。イエス様はその男に「あなたの罪は赦された」と最初言われました。そのあと、「起きて床をたたんで歩きなさい」と言われたのです。すなわち、罪の赦しと病の癒しが宣言されているのです。ベテスダの池の回廊で伏せっていたこの男は、思いを変えて、イエス様の言葉を信じて立ち上がったのです。彼はイエス様から、罪の赦しと救いをいただいたのです。イエス様は、罪によって失われている人間を救うために来てくださいました。今、みことばを聞いている方々に罪の赦しと永遠のいのちが提供されています。キリストの十字架の贖いにより無代価で提供された罪の赦しです。そして同時に信じて受け止める者には罪が完全に赦されて決して滅びることのない永遠のいのちが与えられます。今日も、イエス様はあなたに「よくなりたいか」と問うておられます。それは、あなた自らの罪に気付き、このままではいけないことに気付き悔い改めて神に立ち返ることです。この男のように顔を上げてイエス様を心にお迎えしていただきたいと思います。

喜びと感謝をささげに来た男

2016年04月03日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書17章11~19節
17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
17:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

<要約>

イエスに病を癒された人々

ここに出てくる十人は、イエス様のことを聞いていたのでしょう。イエス様が、病をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせる神の力を持った方であると聞いていたのです。そして、自分たちはイエス様から離れたところに立って、「イエス様、先生、どうぞあわれんでください」と叫んだのです。イエス様は彼らに、「祭司のところへ行きなさい」と言われました。途中で癒された、とあります。彼らはイエス様の言葉を信じその通り実行して癒されたのです。ルカの福音書には様々な癒しの記事があり、言葉だけをいただいてそれを信じて癒された人、イエス様が、触って、あるいは抱いて癒された人もいます。汚れた者を触ると汚れるという律法の規定にとらわれず、イエス様は私たちの弱さに同情しあわれんでくださる方であります。さらには、身代わりとなって自らのいのちを差し出してくださったほどに愛してくださっているのです。

病の癒しと共に救いを得たサマリヤ人

イエス様の癒しに対する応答が二通りに分かれました。それは、途中で癒されたのを知って、神を褒め称えながら引き返して、ひれ伏して感謝をささげたサマリヤ人と、病気の癒しを受けるだけで終わった9人のユダヤ人たちの二通りです。イエス様はこのサマリヤ人を指して、「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」と言われました。イエス様が、声をかけられて、彼ら十人は一緒に祭司にところへ上って行く途中で清められたのに気付きました。しかし、そのうちの九人はそのまま祭司のところへ急ぎました。戻ってきて神を褒め称えて、感謝をささげたのはこの外国人だけでした。そして、そのサマリヤ人は、イエス様から救いのみことばをいただいたのです。この人はイエス様を神の救い主として信じて病をいやされたばかりでなく、罪の赦しと永遠のいのちをいただいたのです。この後、イエス様は続けて十字架への旅を続けます。人類のすべての罪の身代わりとなって十字で裁かれるのです。それはひとえに私たち人間の罪を取り除き、罪の呪いから神の祝福と愛の交わりへと移してくださるためでした。救いは移動と言えます。引っ越しです。罪による悪魔の支配からキリストのご支配に移されることです。それは、同時に滅びと死から永遠のいのちの祝福に移ることです。どうしたらよいでしょうか。悔い改めて、思いを変えて、イエス・キリストの十字架は自分のためであったことを信じることです。何の努力も功績もいりません。ただ、神が提供くださるイエス様をいただくことです。

神の目的に生きるとき喜びと感謝で満ちる

イエス様は「九人はどこにいるのか」と問うておられます。イエス様は残念に思われたのです。九人は病の癒しだけをいただいて、イエス様の救いをいただかなかったからです。現代も、病の癒しあるいは問題の解決をいただきたくて教会に来る方々はいます。病の癒しあるいはその問題の解決を通して真の神に出会ってイエス様を信じて救われる人々もいます。しかし、教会に来て自分の問題が解決するとあとは来なくなる人々も多いのです。なぜ、そのようなことが起こるのかなと思います。それは信心が自分の利得のためであるからです。私のための神、私のためのキリスト、自分のための信仰であるからです。私たちは、創造者なる神の作品です。すなわちつくられたものです。被造物です。被造物は創造者の目的があってつくられるのです。神は、あなたを神の目的のために造られました。 この腕時計を例にあげましょう。これを作った人の目的は、人の腕にはめられて時を知らせることです。その通りに使えば、大変役に立つものです。そうでなければ全く価値のないものです。神はあなたにご計画を持っておられるのです。エレミヤ書には、それは、あなたに平安と将来と希望を与えると書いています。もし、あなたが神の御許に帰り、イエス様を主として仰ぐならば、神は、あなたの中に働いて志を立てさせ、ことを行わせてくださるので、あなたは喜びと感謝で満ちるのです。このサマリヤ人は「大声で神をほめたたえながら」イエス様のもとに帰ってきました。それは大きな歓喜と感謝の叫びだったでしょう。感謝と喜びの人生は今日、イエス様の救いをいただく私たちのものなのです。もし、まだ、イエス様を救い主として受け入れていない人はイエス様を信じて感謝と喜びの人生を自分のものとしていただきたいと思います。